LOGINその知らせは、あまりにも唐突だった。 まだ午前の光がビルの隙間から差し込む時間帯。執務室には静かな緊張が満ちていたが、その均衡を破るように扉が勢いよく開かれる。「社長、大変です」 朝一番で執務室に飛び込んできた橘の表情を見た瞬間、藤崎優はただ事ではないと悟った。 普段は冷静な彼女が、ここまで顔色を変えることはない。「久遠ひかるさんの所属している《リバース・アクターズ》が……」 一拍。 空気がわずかに重く沈む。「本日付で、破産申請を出しました」 優の手が止まる。 ペン先が書類の上で静止したまま、数秒が流れた。 胸の奥を、鋭いものが突き刺したような気がした。(……ひかるの会社が倒産!?) その名前が浮かんだ瞬間、押し殺していた感情が一気に動き出しかける。 だが、それだけだ。 驚きも、動揺も表に出さない。 長年かけて身につけた元俳優という経営者の仮面は、こういうときほど崩れない。「理由は?」「粉飾決算です。数年前から経営が破綻していたようで……スポンサーが一斉に手を引きました」 窓の外では、薄曇りの空が広がっている。 今にも雨が降り出しそうな灰色の雲。 嵐の前の静けさに似ていた。 優の頭の中では、すでにいくつもの可能性が走っていた。 ひかる自身に責任がなくても、世間は待ってくれない。 疑いは勝手に生まれ、根拠のない言葉が広がっていく。 彼女がどれほど真っ直ぐ生きてきた人間かなど、面白半分の記事を書く者たちには関係がない。「主演ドラマは?」「制作がストップしています。局側はキャストの総入れ替えを検討中と……」 つまり、久遠ひかるは、降板の可能性が高い。 優は椅子に深く腰掛けた。 背もたれに体重を預けながら、視線だけが鋭くなる。 頭の中で、瞬時に数字が走る。 違約金。制作費。スポンサー契約。放送枠。 そして何より、世論だ。 ひかるほどの女優が、倒産した事務所に所属していた。 それだけで憶測が生まれる。 不正に関与しているのではないか。 ギャラの未払いは? 税務は? 次に来るのは、必ずこれだ。 スキャンダル。「……もう出ています」 橘がタブレットを差し出す。 ネットニュースの見出しが並ぶ。『トップ女優・久遠ひかる 事務所破産の衝撃』『知らなかったでは済まされない?』『主演ドラマ白紙か
雨が降っていた。 春先の雨は嫌いではない。冬の名残を含んだ冷たさと、どこか新しい季節を予感させる柔らかさが同居している。街の輪郭を滲ませ、看板の色も人影も境界を失わせながら、余計なものを静かに洗い流してくれるようだった。 藤崎優は、車の後部座席から巨大なガラス張りの建物を見上げた。 灰色の空を映し込むその外壁は、どこか無機質で、近寄る者の感情を拒むかのように冷たい光を放っている。 東央テレビ本社。 かつては何度も俳優として訪れた場所だ。 若手だった頃、期待と不安を胸にこの回転扉をくぐった日のことも、主演が決まった夜にスタッフと笑い合った記憶も、すべてこの建物の中にある。 だが、もう違う。 あの頃の自分とは違う。 そして――今日、この場所で再び会うことになるかもしれない、あの女との関係も。「社長、五分後に制作局との打ち合わせです」「ああ、分かった」 短く答え、優は車を降りる。 黒のスーツに、無駄のない足取り。背筋はまっすぐに伸び、視線だけで周囲を黙らせるような静かな威圧感をまとっていた。 五年という歳月は、彼から“優しすぎた男”の面影を削ぎ落としていた。 今の肩書は、芸能プロダクション《FJエンターテインメント》代表取締役。 俳優・藤崎優を知る者は、もう業界でも少ない。知っていたとしても、それは過去の情報に過ぎない。 そうなることを、自分で選んだ。 表舞台から退き、人を支える側に回ることを。 誰かの人生や未来に責任を持つ立場になることを。 それは逃げではなかった。 少なくとも、そう思いたかった。 けれど、五年前のあの日から逃げ続けてきたものが一つだけある。(久遠ひかる……) 名前を心の中で呼んだだけで、胸の奥がわずかに痛んだ。 もう五年だ。 忘れていてもおかしくない。 いや、忘れなければならなかった。 自分から手放した女なのだから。 エントランスに入った瞬間、空気がわずかに揺れた。「あれ……藤崎優じゃない?」「え、俳優辞めたんじゃ……でも、やっぱりカッコイイ」「今、社長らしいよ」 小さなざわめきが背後に生まれる。 聞こえている。だが振り向かない。 過去に興味はない。 そう決めたのだから。 けれど本当は、興味がないのではない。 思い出せば、そこにはひかるがいる。 俳優だった自分。 『誰より
再会の予感 雨の匂いがする朝だった。 夜の名残を引きずるような灰色の雲が低く垂れこめ、ガラス越しの街はまだ完全に目を覚ましていない。濡れたアスファルトが鈍く光り、時折、遠くを走る車のタイヤが水を弾く音だけが静かに届いてくる。 藤崎優は、まだ人の少ないオフィスの窓辺に立ち、湯気の立つコーヒーをゆっくりと口に運んだ。 苦味が舌に広がる。 それを味わうように一度目を閉じ、そしてまた開く。 あれから五年。 長いようで、瞬きほどにも感じる時間だった。(もう五年になるのか……) 時間だけが、確実に過ぎていった。 仕事も変わった。 立場も変わった。 自分を取り巻く人間も、見る景色も変わった。 それなのに、たった一つだけ――どうしても変わらないものがあった。「社長、本日のスケジュールです」 控えめなノックの後、橘が差し出したタブレットに視線を落としながら、優は小さく息を吐く。 朝一番の打ち合わせ、スポンサーとの会食、午後は新人オーディションの最終選考。夜には局の重役との会談が入っている。 隙間のない一日だった。 藤崎優は、芸能プロダクションの社長になっていた。 かつては似合わない肩書きだと思っていた。 人の上に立つよりも、作品の現場に身を置き、ただ良いものを作ることだけに集中していたかった男だ。 だが今は違う。 余計な感情を表に出さず、判断は早く、責任から逃げない。 必要とあらば冷酷だと陰で囁かれる決断も下してきた。 守らなければならないものが増えれば、迷っている暇などない。 それが現在の藤崎優だった。 成功者、と呼ぶ者もいる。 だが優自身は、そう思ったことが一度もない。(成功……か) そんな言葉に、どこか皮肉を感じる。 会社は大きくなった。 仕事も順調だった。 誰もが羨む立場を手に入れた。 それでも――。 どれだけ時間が流れても、胸の奥に触れてはいけない場所がある。 『久遠ひかる』 その名前を、優は心の中でだけ呼ぶ。 もう五年も、直接声にしていない。 いや、呼ぶ資格などないと知っているからだ。 デスクに置かれた一冊の雑誌が目に入った。 表紙には、柔らかな笑みを浮かべる女性。 光をまとったような瞳は、見る者すべてを惹きつける。『久遠ひかる』 優の指が、わずかに止まった。 国内外で評価される女
春の気配が、街に差し始めていた。都内最大級のホールの前には、開場の何時間も前から長蛇の列ができている。—国際共同制作映画、制作発表会。日本だけではない。海外メディアも数多く詰めかけていた。フラッシュの嵐。飛び交う各国の言語。張り詰めた熱気。この作品が、ただの映画ではないことを、誰もが理解していた。やがて——司会者の声が響く。「本日の主演を務める俳優陣の登壇です!」扉が開いた。最初に現れたのは、藤崎優。黒のスーツを完璧に着こなし、静かな存在感を放っている。続いて 結城美緒。緊張は見える。だが、その瞳には確かな覚悟が宿っていた。そして 篠原夕季。一歩一歩を噛みしめるように歩いている。最後に 久遠ひかる。空気が変わった。ざわめきが、波のように広がる。美しい。だがそれだけではない。そこに立っているだけで、視線を支配する。主演女優とは、こういう存在を言うのだと、誰もが悟る。四人が並んだ瞬間、世界が、この作品を見た。フラッシュが止まらない。司会が微笑む。「では、質疑応答に移ります」最初の質問は、海外記者だった。「この映画に参加することを決めた理由は?」ひかるが答えようとした、そのとき。美緒が一歩前に出た。マイクを握る手は、わずかに震えている。だが——声は真っ直ぐだった。「……久遠ひかるさんがいたからです」会場が静まる。美緒は続ける。「私はまだ未熟です。でも、ひかるさんの背中を見ていると、不可能なんてないと思えるんです」一瞬、言葉に詰まる。それでも、伝える。「ひかるさんのおかげで、海外映画に出られます」ひかるの瞳が、わずかに揺れた。次に、夕季がマイクを取る。柔らかな笑顔。だが、その目は熱い。「私は長くこの世界にいますが——こんな女優を見たことがありません」会場の誰もが耳を傾ける。「努力を、才能で超えてくる人なんです」そして、はっきりと言った。「ひかるさんのおかげで海外映画に出られます。心から誇りに思います」静かな拍手が起こる。そのとき。優がマイクを手にした。会場の空気が変わる。低く、落ち着いた声。「この映画は、間違いなく世界に届きます」一拍。そして続けた。「理由は一つです」視線が、ひかるへ向く。「久遠ひかるがいるからです」どよめきが起きた。だが優は
授賞式の熱気が、まだ身体の奥に残っていた。主演女優賞——久遠ひかる。自分の名前が刻まれたトロフィーを抱えながら、ひかるは控室の扉を静かに閉めた。途端に、世界の音が消える。さっきまであれほど鳴り響いていた拍手も、祝福の声も、もう届かない。ドレスの裾が床に広がる。ひかるはソファに腰を下ろした。そして——小さく息を吐く。指先が震えていることに気づいた。今さらになって、現実が押し寄せてくる。(……本当に、取ったんだ)胸の奥が熱い。だが、不思議と涙は出なかった。代わりに込み上げてきたのは、長い時間の記憶だった。売れなかった頃。オーディションに落ち続けた日々。名前すら覚えてもらえなかった現場。悔しさを飲み込みながら、笑顔を作ることだけが上手くなっていった。——それでも、やめなかった。誰にも見えていない場所で、積み上げてきた。そして、婚約者だと思っていた人に、家政婦呼ばわりされていた苦い思い出。そのすべてが、今夜、報われた。ここへ、女優という場所に戻って来てよかった。ひかるは、トロフィーを撫でる。冷たい金属の感触。そのときだった。コンコン——控室の扉が叩かれる。「……入っていいか」低い声。ひかるは振り向いた。「どうぞ」扉が開く。立っていたのは、藤崎優だった。タキシード姿のまま。ネクタイが少しだけ緩んでいる。きっと、急いできたのだろう。数秒、二人は何も言わずに見つめ合った。先に口を開いたのは優だった。「……おめでとう」短い言葉。だが、その声はどこか掠れていた。ひかるは微笑む。「ありがとうございます」優はゆっくりと部屋に入り、扉を閉めた。静寂が戻る。彼の視線が、トロフィーに落ちる。そして小さく息を吐いた。「やっぱりな」「え?」「取ると思ってたよ」ひかるは首を傾げる。「そんなに確信してたんですか?」優は迷いなく答えた。「ああ。本物だからな」その一言で——張り詰めていた何かが、ふっと緩んだ。ひかるの視界が揺れる。あれほど出なかった涙が、急に滲んだ。慌てて視線を落とす。見られたくなかった。役ではない涙を。すると、優が静かに言った。「……怖かった」ひかるは顔を上げる。優は、まっすぐこちらを見ていた。「お前が遠くに行く気がして」時間が止まる。呼吸を忘れるほ
都内最大級のホールには、眩いほどの光が降り注いでいる。一年に一度のドラマアワード授賞式。数えきれないほどの名作の中から、頂点が決まる夜。ひかるは、深いネイビーのドレスに身を包んでいた。過剰な装飾はない。だが、その佇まいだけで視線を引き寄せる。会場へ続くレッドカーペット。フラッシュが弾ける。「久遠ひかるさん、こちらへ!」「今回の受賞、期待されています!」「今のお気持ちは?」マイクが向けられる。ひかるは柔らかく微笑んだ。「ここに立てているだけで、十分幸せです」それは本心だった。少し離れた場所を、藤崎優が歩いている。黒のタキシード姿。無駄のない立ち姿。ふと視線が重なる。優は何も言わない。ただ、小さく頷いた。——大丈夫だ。言葉よりも強い合図だった。授賞式が始まる。重厚な音楽。ステージに立つ司会者。助演賞、脚本賞、監督賞——次々と発表されていく。だが、ひかるの耳にはほとんど、何も入ってこなかった。指先が、わずかに冷たい。そのとき。隣から低い声。「手、震えてるぞ」優だった。ひかるは小さく笑う。「少しだけ………優さん、怖いよ」優は前を見たまま、ひかるの手を握って言う。「絶対、取るぞ」断言だった。ひかるは優に手を握られたことに驚いたが、自分の手を引っ込めることはなかった。少し照れながら、優に聞いた。「どうして分かるの?」「毎日、隣で見てたからだ」その一言が、胸の奥に静かに落ちる。涙が出そうになるのを、ひかるはこらえた。やがて。司会者の声が、ゆっくりと響く。「……それでは、主演女優賞の発表です」空気が変わる。会場が息を止めた。スクリーンに、ノミネートされた女優たちの名シーンが映し出される。最後に流れたのは——「誰よりも、君だけを」。蒼一に背を向けながらも、涙をこぼす玲子。そして振り返る、あの表情。ざわめきが広がる。「これは強い…」「久遠ひかるじゃないか?」プレゼンターが封筒を開く。一秒が、永遠のように長い。ひかるの手を握った優の手に力が入る。そして——「本年度の、主演女優賞は……」紙を引き抜く音。微笑み。「久遠ひかるさんです!」一瞬。音が消えた。次の瞬間——割れんばかりの拍手。歓声。誰かが立ち上がる。また一人、立つ。気づけば、スタンディングオ
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直
黴臭い布団に横になり、天井の染みを見つめていると、意識とは裏腹に、記憶だけが勝手に遡っていった。――どうして、あの人と出会ってしまったのだろう。あの頃の私は、できるだけ人目につかないように生きていた。派手な服も、化粧もせず、ただ「静かに」「何も起こさず」一日を終えることだけを考えていた。生活のために始めたのが、清掃のアルバイトだった。古くて、薄暗い雑居ビル。廊下の電灯はところどころ切れ、昼間でも影が溜まるような場所だった。そのビルの一角に、《Kurosaki Creative Works》という、出来たばかりの広告制作会社が入っていた。出会いは、共同トイレだった。男